昭和49年04月15日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」

 信心はせぬでもおかげはやってあるのですけれども、それはいつまで続くか判らない。信心はせぬでもおかげはやってある。けれどもそれは、なら何時まで続くかわからない。それは最近二十五年後の地球と言う事を予言しておる人、またはそれをいろいろ研究しておる人達の説を借りると、それを非常に強く思うです。だから信心はせぬでもおかげはやってある、けれどもやはり限度というものがある。
 そこでそういう例えば、「天地は流行ることもなし流行ることなければ終わりもなし」と言う事は、その天地日月の心になることが肝要であると、そういう天地はまあ悠久なものだといよいよするためにはです。人間氏子が皆、天地日月の心になることが肝要なのである。だから、信心はせんでもおかげはやってあろうけれども、それはなら、何時までとは言ってない。いつまで限りが、例えばその四百二十年前に予言されたことが的確にこう起きて来ておると言う様な事がです。
 なら二十五年後には、地球が破滅人類が破滅という程しの、言うならば予言をまあ事実とするならね、そう言う事があるとするならです。やっぱり天地にも一つの限りがあると言う事が分ります。言わば天地はこれは悠久なんですよ、けれども地球は別です。だから地球のように、例えばこう人間が生存しております。だからまだこの宇宙の中にはね、その地球と同じ様なものがまだいくつもあると言う説がある位ですからね。
 けれども天地はもう、無限なものですけれども、終わりもないのですけれども、地球は分からんのです。私共が住んでおる地球は、破滅するかもわからんのです。その例えば破滅をせんで済む、おかげを頂くためにはです。信心はせんでも、おかげはやってあると言う事には限りがある、とまあ予言を、まあ言わば推理する訳ですね。そうなるだろうと、またそうなると断言しておる人もあるくらいですから、ならなったにして、なったことにするとです。
 これは「信心はせんでもおかげはやってある」と言うおかげは二十五年後には止まるということになる訳でしょう。そこで私共が信心さしてもらって、言うなら、「天地日月の心になること肝要だ」と、私が頂いておることもそのことなんです。人間が自分で自分の首を絞める様な事をするから、そう言う事になるんだと、けれども自分で自分の首を絞めるのではなくて、広がりに広がっていく道、そういう道を辿らしてもらい、そういう信心を身に付けていく者は又別だということです。
 これは私が予言することなんです。言うなら天地日月の心になる事が肝要だと言う様な心掛けで日常生活をさして頂く者は生き残る人々になる訳です。そこで天地日月の心と言う事をひっくるめて言うとどう言う事かと言うと、私はもうもの皆生かす働きだと思うですね。一切のものを生かす生かさねば止まんという働きだと思うです。私は今朝御神前で御祈念中頂いたことは、『倒す者は倒される』と言う事を頂きました。例えば沢山借金をしてから相手を倒す訳ですね。
 自分等儲かったごたるばってん必ず倒されるです。と言う事はどう言う事かと言うと、相手を、言うならば憎んだら、必ず憎まれると言う事です。相手を潰そう相手を潰そうとしたらもう絶対自分自身が潰されることです。それを昔から「人を呪わば穴二つ」と言う様な事を申します。人を傷つけたら必ず自分が傷つけられるです。これはもうどうでも一つまず人間関係からですねえ、私は人を生かす働きが日々の信心の営みの中にです。本気でなされなければいけないと言う事です。
 只相手に対して、例えばこれは、家族なら家族をどうも、思うとらんと言う様な事は、倒そうとは思ってないけども、その程度ですから、そのどうも思うとらんと、例えば家庭の中に一家からはみ出て、その我侭をする人があるとするとです。どうして我侭な奴じゃろうかと思うのではない、それも神乍らでどうも思とらんというだけじゃなくて、その我侭な人を生かす願いというものを、持たなきゃいけないです。例えばこれは商売なら、商売でもそうです。
 自分方の繁盛さえすれば良い、相手はもう潰れる方がええと言う様な考え方ではです。もうそれは決して繁盛は致しません。昨日でしたかそこの中村さんです。合楽食堂のそこにすぐ近所に、カントリーと言うあのあれがでけましたね。食堂がそん時に「もうあそこにあがしこ資本(もと)かけちから、立派な店が出来るそうですから、もう家あたりはもうこれはいよいよ潰れる」と言った様なお届けがあったんです。「中村さん心配しなさんな、こんど出来るそのカントリーという店も。
 どうでんこうでん繁盛すること、折角出来たんだから、お願いしなさい。あんた方は神様は、潰しはしなさらん」と言う意味のことを申しておりましたが、昨日でしたか、一昨日でしたか、「もう親先生本当にあん時、ああ頂いたが、もうその通りです」とこう言われる。だからそれがもっともっとすっきりと、なら近所に出来たお店のことの、なら発展を願わして頂く心が、もっともっとすっきりと立派になったら、合楽食堂も、もっともっと素晴らしく発展してくるです。
 商売敵とか、相手を倒せば自分が、絶対倒されるんだ。だからそれと反対に相手を生かせば絶対自分が生かされるんだ。相手の繁盛を本当に願ったら、自分のことは絶対繁盛するんだと、私はそういう生き方がです。自分で自分の首を絞めないことでしょうが。相手を倒してやろうとそれこそ仇のごたる思い方をするのは自分で自分の首を絞めて行ったと同じですから、それは天地日月の心にならんです。私は天地日月の心と言う事は、いつもまあそれこそ微に入り細にわたってここの所を説きますね。
 「天の心とは与えて与えて止まない麗しい心だ」「地の心というのはどんなことでも黙って受けて受けて受け抜いて行く心だ」と、「日月の心とは実意丁寧神信心そのものなんだ」というふうにまあ説きます。だからそれも身に付けて行きよるけども、今日の御理解を頂いたら、それを本当に自分のものにしなければいけないと言う事になってきます。それを簡単に言うとです。相手を倒すような心というものをです。すっきり取って、倒すのじゃなくて、相手を起すというか、生かすという心の状態こそがです。
 これはもう広ごりに広ごって行く心なんです。 それが例えば家庭の中でです。「家の息子は」とか、「家の親は」とか、と言うて、相手を倒すような思い方の中に家庭が円満に行く筈はありません。そういう家庭が繁盛する筈は絶対ないです。ええですか。相手を倒すというけども、倒せば今度倒すかも知れません。けれどもね、絶対自分が倒されるということを一つ本気で信じなければいけません。そこでなら繁盛したいならば、倒されたくないならば、今度本気で相手を立てよう。
 相手を生かそう。相手の繁盛を願おう。というここん所へです。私は焦点をおいて行くことの信心こそがです。言うなら、今日は具体的に言うならば、天地日月の心だと思うです。金光様の御信心、信奉者はもうこれはもうすべてそういう心がけにならなければ駄目です。だからね、だから相手を倒そうとは思いよらんというだけじゃいかんのです。広がりに広がって行くということは、相手を倒そうというような考え、そんなケチな考えは持たん。と言うだけではいけんのです。
 相手を生かそう。相手を生かそう。その相手のために修行しよう。相手のために本気で信心さしてもらおう。祈らせてもらおう。と言う様な気持ちにならなければ繁盛が繁盛になって行かんです。只、その相手を倒そうと言う様なケチな心はありませんというだけではいけんのですね。家の中にどういうなら、愚図、愚図、愚図が居ってもですね。私は本当にそれを思うんですけどもね。そういう生き方にならせて頂いたらね。私は感じるんですけども、自分自身の欠点を神様が生かして下さるです。
 今日は私これはもう大発見でした。私はいつも皆さんにも聞いて頂くように、私は本当に「ふうたらぬくい」と、人間が甘く出来ていると、だらしがないと、そういうふうたらぬくいなら私を、ふうたらぬくかったからこそ、私は今日のおかげを頂いたというおかげもです。これは、神様が私のふうたらぬくさをです。立てて下さったんです。これはもう、だからね、もう、私の真似はだあれも出来んです。私のごたるふうたらぬくか者が居らんからです。言うならもう本当にそうです。
 例えば根性が悪かってもいいです。神様が今日私が申しますように、相手を倒すのではなくて、起す、相手を殺すのではなくて、生かすと言う事を本気で願えるようになったらね。今度は神様がね、こちらの欠点までも生かして下さるです。はあ私が子供達の上にでも、そんなこといかんじゃないか、ああじゃないと言う様な事は、例えばここまで出るごと云いたい時もあるんですけれど、神様が「言うな」と仰る事はです。「言わずに黙って祈れ」と仰る事はです。
 その目に余るようなその欠点をです。神様が今度は生かして下さる。働き、そういうおつもりでありなさるならと思うです。ええですか、自分の欠点までも今度は神様がね、立てて下さるです。だから「私のごたる欠点を持っとるものはおらん」と言うのですから、もう私の真似は出来ん。言うならば、金光様の御信心の中にも、甘木もありゃ、久留米もある。合楽もあるということが意味がわかりますね。
 金光様の御信心ても、久留米の初代とか、例えば安武先生やったら、私の様なだらしない心ってものは、それこそ持って居られなかったに違いないです。だから私は甘木よりも、久留米よりも素晴らしいだらしない心を持っておった。誰よりもふうたらぬくかった。けれどもそれが一度神様の手にかかったらそのふうたらぬくさが、今日の合楽があったんだと言う事なんです。はあこれはもう大変な事だなあと私は思いました。
 昨日の御理解、もう、私のようなものはおかげ頂ききらん、という思い方がね、やっぱりおかげを頂かんことになりますよ、と言う様な意味のことを申しましたようにです。それはもう本当言うたら、その自分の根性の悪いことも、その欠点もです。これはもう人が持たんような汚いものを持っておる。その汚いものをです。神様はギラギラ光るように輝かして下さるです。
 「家の息子はグズだ」とこう言う。もうグズだからこそ、その人がおかげを頂けれる道を神様が開いて下さるのです。「あんたグズやからシャンとしなさい」てなんてんだから言う事いらんと言う事です。「もうこの人ばっかりは、人間の良かばっかりもなあにもならん」てんなんてんちゅうことは、大変に御粗末御無礼になる事です。神様に頂いておるそれをです。だから問題はですよ、只それを願うたからというて、なら「私のふうたらぬくさを生かして下さい」と願うただけじゃおかげにならんですよ。
 結局一生ふうたらぬくいで終わらんなりません。けれども今日私が申します様に、天地日月の心にならせて頂くと言う事なんです。それを今日は人を倒せば自分は必ず倒される。そこで人を起そう人を立てよう。人を倒せば必ず倒されるのですから、人を生かせば必ず生かされるです。人の繁盛を本気で願うたら自分は繁盛するんです。そういう生き方が、言わば広がりに広がって行く道なんです。「人を呪えば穴二つ」です。人を呪うから自分も又その穴に入ってしまわなければならない様な結果になるのです。
 相手を立てるのです。相手を生かすのです。商売敵と思うておった、その商売敵のことの繁盛を本気で願ってやるんです。願ってやるじゃない、願わしてもらうんです。そこには自分の家の繁盛が必ず約束される。商売敵のあれが一ちょう潰れりゃ良かがと、困ったことがあったら、心の中で喜ぶごたる心があったんでは、だからいけません。倒すものは倒されるのですから、それと反対の心掛けになることを、今日は天地日月の心だというふうに聞いて頂いた。
 天地はもうそのように、いつも一切を生かそう生かそうという働きが天地の中にあるのです。「天地を征服する、自然を征服する」てんなんてん言いよるから自然から、言うなら、二十五年後には征服されるんだと言う様な、言わば説も成り立つ訳なんです、やはり自然の恩恵という物を恩恵として有難く受けると言う事。そのなら恩恵の中には苦い物もありゃ、辛い物もあるということです。それを「苦いもんな嫌、臭いもんな嫌、辛いもんな嫌だ」と言う様な事言わずにです。
 それをならそのことと対決するような気持ちで、それを頂き抜かせて頂くという心が天地日月の心なんです。そういう生き方をするところにです。その御恩恵に浴しないはずがないです。いわゆる広ごりに広ごって行く道がそこから新たな展開になって来る訳です。良い意味でのまあ競争相手とか申しますかね。それは良いとしましてもです。相手を倒そうと言う様なこれは汚い心を、一つ本気で私共の心から取り除かせて頂くと、それは今日このことがわかった以上です。
 これはどうでもそうならなければ、言わば生き残る人々にならないのです。まず自分の心の中から、自分の家庭の中からです。子供なんかでも「あんた馬鹿じゃから、頭が悪いから」って言うから、頭が悪うなってから、馬鹿になるとです。だから相手を生かさにゃいかんです。もう言うならば、頭が良いの悪いのじゃない。頭が悪けりゃ悪いなりに神様はおかげを下さると言う事です。頭が良かったばっかりに警察の御厄介になるというのもありましょうが。だからね。
 ならこの人はもう本当に言うならば、気が利かんならです。気が利かんなりにそれを生かして行く働きというものが天地日月の心です。もう本気でひとつ主人は家内を立てる。家内は主人を立てる。親は子を子は親を立てる生き方、それもねただこっとりとも言わんと言った様な事だけじゃないんです。祈るのです本気で。中村さんがもうこれだいぶになりましょうが、なら近所にああいう大きな同業者の方がでける時にです。心配された「そげな事はないよ。折角出来たんじゃから相手の繁盛も願いなさい。
 あんた方は神様が潰しゃしなさらん」だから、これをもっともっとあかぬけした生き方にならにゃいかんです。例えばこうやって相手の店の前に行ったらお客さんが一杯寄っちゃある。それはもう腹の立つごとあっちゃいけん。「いやぁあっちは繁盛してござる」と言うて御礼を申し上げるような心に、本気でならにゃいかん。そんためには相手の繁盛を本当に願わにゃいかんです。それが相手を立てることです。そこには必ず自分が立てられるです。繁盛は願えば自分方は必ず繁盛するんです。そういう生き方をです。自分で自分の首を絞めない生き方だというふうに今日は聞いて頂いた。
 もうどうでも自分で自分の首を絞めるような生き方から、一ちょう本気で卒業しませんとね。言うなら二十五年後が恐い。しかもそれはです。自分自身も助かることだし、人も自他共に助かって行くことだし、家は繁盛することだしね、もう結構けだらけなおかげの条件というものがそこに足ろうて来るのです。「信心はせんでもおかげはやってある」今ん所は信心はせんでもおかげはやってあるのです。けれどもこれはいつまでという約束はありません。
 言うならばその予言の説を聞くと、二十五年、まあ二十五年だけは辛抱するけれども、もうあとは、言うならば、天地が辛抱せんと仰るかも知れん。「もう地球の方に住んどる人間だけはもうろくな奴おらんから、もう地球はいっちょ潰そ」と仰ってもです。もう地球のごたっとは沢山あるとですから、宇宙の中には、天地の中には、(笑)ね、天地そのものは悠久なんです。けれども地球はそうじゃない。ここでも教祖様は、「地球ははやることもなからなければ」と言う様な風に仰っとらん。
 「天地」と仰っておられる。それを例えば、四百二十年も前からそれを言い続けて来た人があったと言う事。そしてその人が言う通りのことになって来ておったと言う事。そこで後もう二十五年の際どい所で、ここん所に気付かせて頂いてです。人間の生き方在り方というものを、本気で改めさせてもろうて、天地日月の心になることを、いよいよ肝要なものとしての生き方を身に付けていくと言う事。
 それを今日は、「相手を倒せば自分が倒される」という道理に基づいて、相手を倒すのではない。相手を起すのだ。相手を生かすのだという、私は生き方が、言うならば信心だと思うです。これは信心をしなければ頂けない所だと思うです。なら信心しておってもそこに気が付かなかったら、いつまでも相手を恨んだり憎んだり、又は心で傷つけたり、又心で殺したりしておるから自分もいつもめちゃくちゃな心、イライラ、モヤモヤ、ジガジガがある時にはですね。
 もうそげん時ですから、自分自身が今言えば天地にいじめられておる時ですから、お詫びをさせて頂いて、改まった生き方、相手の事を本気で祈り願わして頂く心の状態を頂くと、自分の心も穏やかになって来る。そういう穏やかな心が広ごりに広ごって行く、自分というものをいよいよ窮屈に、困った方へ行くのではなくて、もう限りない広さへ、広い道に出らせて頂くという生き方を、今日は天地日月の心と言う風に聞いて頂きました。
   どうぞ。